仏教入門:聖道仏教③

仏教の入門編として聖道仏教についてお話しています。
今回で3回目となるわけですが、今回は仏教用語にも出てくる「煩悩」にまつわるお話をしたいと思います。

人は煩悩を持ちながら生きているというお話を前回までにしたと思いますが、煩悩で悪いことを思いつづけていますが、そんな人間はなぜ生きるのでしょうか?
この煩悩と格闘したとされるのが親鸞聖人なのです。
親鸞聖人は九歳で、当時、日本の仏教の中心地であった比叡山・天台宗の僧侶となられました。

聖道仏教の1つである天台宗は、『法華経』の教えに従い、戒律を守りながら煩悩と闘ってさとりを得ようとする教えなのですが、この天台宗の大曼の難行まで成し遂げた親鸞聖人でさえも煩悩は減りもしなければ、なくなりもしなかったというように言っているのです。
そんな親鸞聖人ですが、だれよりも真剣に心を磨こうと努めていたのですが、努めれば努めるほど人間の実態を知らされた親鸞聖人は「煩悩熾盛の衆生」と歎異鈔でいわれています。

(入門編としては少し難しい内容かもしれませんが、1度歎異鈔を読んでみることで仏教について理解が深まると思います。)
親鸞上人のいう「熾盛」とは、燃え盛るということであり、欲や怒りの煩悩が燃え盛っているのが人間であるということです。
俗にこのことを「煩悩具足の凡夫」ともいい、煩悩に目鼻をつけたような人間ということを意味します。
これは雪だるまのようなもので雪だるまから雪を取ったら何も残らないようなもので、私たち人間は煩悩をとったら何も残らないようないわば煩悩の塊であるということをいみしているのです。

このような煩悩具足の我々は、「仏法修行の器にあらず」と、諸仏からも見捨てられた極悪人であるというように釈尊は説かれているのです。

Comments are closed.