仏教入門で知る「仏教には生きる目的が教えられている」

「謙虚に自己を反省し、お互い仲良く生きるための教えが仏教だろう」

「今の生活に感謝し、心を安らかにする教えだろう」

「世界平和運動や、難民支援、ボランティアをするのが仏教だろう」

というように、仏教を倫理や道徳のように思って、よりよく生きる方法を教えられているものだと思っている人が多いようです。

もちろん、仏教の平等思想は平和を実現させる働きをし、明るい生き方をもたらすといえるでしょうが、それらは飽くまでも、副産物であって目的ではないことを、よく知っておくことが必要です。

仏教は「どう生きるか」という生き方をアドバイスするのが目的ではなく、「なぜ生きるか」という人生の目的を教えられたものです。

そのことを、親鸞会で親鸞聖人の教えを学んでいる友人から教えてもらい、初めて知りました。

世の中の人は、どう生きるかばかりを考えていますが、どんなに長生きしたところで、80年から100年、過ぎ去れば幻のような一生です。

老後の生き方を心配し、趣味を持とう、友達を作ろう、年金や保険を、と「どう生きるか」ばかりを問題にしていますが、最も肝心なことを忘れてはいないでしょうか。

死は、突如、私たちの都合などお構いなしに襲いかかってきます。

早ければ今日にも、死に直面しなければなりませんが、後生へ飛び込む準備はできているのでしょうか。

「忘れていた、忘れていた、やがて死ぬ身であることを……」

と叫んだ文豪もありました。

必ず死にゆく露の命です。私たちは、一体何のために生まれてきたのでしょうか、生きているのでしょうか、苦しくとも生きねばならないのでしょうか。

日本の頂点にのぼりつめた豊臣秀吉も、臨終には、「難波のことも夢のまた夢」と泣きながら死んでいきました。

「大命将に終らんとして、悔懼交至る」(大無量寿経)

“臨終に、後悔と恐れが、かわるがわる襲ってくる”

とお釈迦様は説いておられます。これを生死の一大事といわれます。

夢と消え去る、金や財、地位や名誉、妻子を求めることが、人生の目的ではありません。

私たちの生きる目的は、現在ただいま、生死の一大事を解決し、生きてよし死んでよしの絶対の幸福になることです。

その幸せになるまでは、どんなに苦しくとも生き抜きなさいよと教えられているのが仏教です。

そのようなことが教えられているのが仏教だとは、誰も知りません。

なぜ、寺院では、このような話がなされないのでしょうか?

親鸞会のがんばりを期待したいですね。

仏教入門で知る「葬式や法事は何のためにするの?」

「派手なことを好まぬ人でしたから……」

「いやいや、最後の孝行だから、葬式ぐらいは盛大にされてはいかがですか」

「そうそう、そうしないと死んだ人が浮かばれないよ」

このように、葬式や法事を盛大に勤めることが、亡き人の喜ぶことだと思っている人が多いようです。

しかし、死後の供養ではなく、生きている時の孝行こそ、まず大切でしょう。

仏教を説かれたお釈迦様は『父母恩重経』に、

「外出先で、季節の果物などを頂いたならば、持ち帰り、父母に差し上げなさい」

「親が病気になったら、他人にゆだねず、自ら看病しなさい」

など、孝養父母を勧められています。

そのうえで、

「どんなに父母にご馳走をふるまい、美しい音楽、素晴らしい衣装、立派な車、宮殿のような家を建ててあげても、仏法を伝えなければ、いまだ不孝者である」

と教えられました。

両親に仏法を伝えて、ともにこの世から無碍の一道に救われ、未来は阿弥陀仏の浄土に往生して永遠の幸福になることが、本当の孝行であると、真の仏教は教えているのです。

では、葬式や法事を勤めるのは何のためでしょうか。この仏教入門で、正しい葬式や法事の意義を知ってください。

葬式や法事を死者を救うためだと思ってすれば、迷信で終わります。

しかし心掛けさえ間違えなければ、葬式も法事も、有り難い仏縁とすることができるのです。

“あんなに元気だった人が、もうこの世にいないのか”

“私もいつか、白骨になる時が来るのだ”

“あくせく働いて、いつのまにかオレもこんな年になってしまった。何のために生まれてきたのだろう。このまま人生終わってよいのか”

“夢のような人生で、変わらない本当の幸福になるために生まれてきたのではないか。その道を教えられた仏教を、聞かせていただかなければならないな”

仕事も休んで親戚一同集まる貴重な時間。故人を縁として無常を念じ、真剣に仏法を聞かせていただくご縁にしなければ、もったいないことです。

またそれが、最も亡くなられた方の喜ばれることになるのです。

亡き先祖が何を望んでいるか。

それはあえて、亡くなった先祖を呼び出して尋ねてみるまでもなく、私たちが子供に何を望み願っているかを考えてみれば分かります。

それは「正しく生きよ、幸福になれかし」ということしかありません。

そうと分かれば、私たちが正しく生き抜き、”よくぞ人間に生まれたものぞ”という生命の大歓喜を得ることこそ、最も親に対して、先祖に対しての恩返しということになります。

では、正しく生き抜き、真実の幸福を得るにはどうすればよいのか。

それを教えられているのが、真実の仏法なのです。

このお釈迦様の教えを、正しく明らかに教えていかれたのが親鸞聖人でした。

「親鸞は父母の孝養のためとて、念仏一返にても申したること、未だ候わず」(歎異鈔)

“親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏を称えたり、読経、その他一切の仏事をしたことは一度だってない”

「親鸞閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし」(改邪鈔)

“私が死んだら、賀茂川に捨てて魚に食べさせるがよかろう”

間違った常識を打ち破り、生きているうちに親鸞と同じ幸せに救われてくれよ、と叫び続けていかれたのです。

仏教入門で知る「誰のためにお経をあげるのか?」

葬式や法事、また日々の家庭の仏事において、お経をあげる方もおられることでしょう。
そのお経は、亡くなった人のためにあげていると思ってはいませんか?

仏教と聞くと、死後に用事のあるものだと思っている人が多いようです。
人が亡くなるとお経を読んでもらう。お経は死人のご馳走であり、亡くなった人に聞かせるもののように思っています。

しかし、ちょっと考えてみると、おかしくはないでしょうか。
お経は、お釈迦様の説法(今なら講演)を、お弟子たちが後世のために書き残した、いわば講演録です。
お釈迦様は、死人相手に話をされたことはありません。もちろん、葬式も法事もされたことはないのです。

仏教を説かれたお釈迦様は、常に生きている人々に、生きている間に果たさなければならない、人生の大事を教えられたのです。

「え!?じゃあ、お経は何のために読むの?」

こんな声が聞こえてきそうですが、もちろん生きている私たちが聞くためです。チンプンカンプンで、聞いてもどうせ分からないと思うでしょう?だからこそ、読経のあと、そのお経の意味を聞かせていただくことが大切なのです。

「でも、お経を読んだら、死んだ人が苦しみの世界から浮かぶと、みんな言いますよ」

常識のように言われていることですが、「常識=正しいこと」とは言えません。

この疑問に答えておきましょう。

お釈迦様がご在世中にも、こんなことがあったそうです。

ある人がお釈迦様に質問をしました。

「お釈迦さま、長いお経を読んでもらったら、地獄に堕ちている者でも極楽へ往けるという人がいるのですが、本当でしょうか」

その時、お釈迦様は無言で立ち上がり、小石を一つ拾って、大きな池に投げられたのです。水紋を広げながら沈んでいった石を指さしておっしゃいました。

「そなたたち、この池の周りを、石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれ、と言いながら回ったら、あの石が浮かんでくると思うか」

「お釈迦さま、そんなことで、石が浮かぶはずがありません」

「そうだろう。石は石の重さで沈んでいったのだ。どんなに浮かび上がれと言ったところで、浮かぶものではない。人間もまた自業自得によって、死後の果報が定まるのだ」

このように、読経で死者が救われるという迷信は、もともと仏教にはなかったのです。それどころか、そんな俗信を打ち破って、生きている時に、本当の幸福に導く教えが仏教なのです。

仏教の入門として、大切な内容なので、よく知っておいてください。

違いがわかる仏教入門

骨董品が静かなブームです。
火つけ役は、テレビ番組『なんでも鑑定団』。

各地に眠っていた。お宝”が次々と持ち込まれ、思わぬ高値に驚く場面もありますが、中にはこんなケースも……。

毛利家から譲り受けたという”雪舟の絵”。
持ち主は1千万円を信じていたところが、実は5万円のニセモノ。

ほかにも、先祖代々家宝と大事にしてきたものが二束三文と分かり、ぼうぜんとする人があります。

かの聖徳太子は、仏教こそは、何億円どころではない、人類最高の宝とおっしゃいました。
でも、その仏法に、実は本物とニセモノがあるとしたら……。

以前、亡くなった画家の所蔵していた絵を、遺族が1万円程度で売りに出そうとしていたところ、何とゴッホの絵と判明し、競売の結果、6千6百万円で落札されるということがありました。
見る人によってこうも違うものかと驚きます。

料理の世界でも、味を見分ける舌が命。生け花や書道や歌、そのほかどの道でも、よいものをよいと感じる感覚を磨くことが大切だといわれます。

仏教にも、ホンモノとニセモノとがありますが、皆さんは違いを見分けられるでしょうか?
「騙されていた」ということがないように、この仏教入門で、違いを知っていただきたいと思います。

入門編:お釈迦さまってどんな方?(10)

仏教入門編で、お釈迦様についてお話ししています。今回も続けましょう。

肉体を痛めつける厳しい修行の果てに、太子は意を決し、これまでの修行を捨てられました。
衰弱した心身の力を回復しなければ正しき智慧が生じないと考え、ニレゼン川に入って水浴し、あかを除き身を清められました。

しかし、苦行に疲れ切った太子は、沐浴のあと、ほとんど岸にはい上がる気力もなくなっていました。
そこに通り合わせた乳買いの娘、善生女にシッタルタ太子は、一杯の乳の供養を請われました。苦行にやつれ果てておられるとはいえ、たぐいまれなる太子のお姿を拝した善生女は、喜んで太子に新鮮な乳を捧げました。

太子は気力を回復されましたが、橋陳如ら5人の従者は、この有り様を見て、

「ついに、太子は、苦行に耐え切れず堕落した。
 修行者にとっては大蛇よりも怖いといわれる女人から乳を受けた。
 あんなことでは絶対に菩提など獲られるものではない。
 あんな堕落者に随侍していたら、我々も一緒に堕落してしまうぞ」

とささやきながら、太子を見捨てて去っていったのです。

しかし一方で、決意も新たになったシッタルタ太子は、独りニレゼン川のほとり、ブッダガヤの菩提樹の下で、
「われ正覚を成ぜずんば、ついにこの座を起たず」
と強固な決意をされました。

この時より心中、幾多の変化怪象の威嚇や、女色愛欲の誘惑や、世間の利欲など、悪魔波旬が襲い来て、太子の決意を翻さんと誘惑しました。

が、静かなること山のごとく深遠なること海のごとき太子の忍耐と剛毅は、ことごとくこれを征服し、ついに35歳の12月8日、一見明星して大悟徹底、三世十方の実相を諦観せられ、三界の大導師たる仏陀となられたのです。

この歓びをあらゆる人々と、ともにしたい、の念願が心の深奥よりわき上がった釈尊は、
「われは一切勝者なり。一切の智者なり」
と宣言されました。

お釈迦様の教えを、そのまま伝えていかれた方が浄土真宗の開祖・親鸞聖人といわれます。
親鸞聖人の教えていかれたことは、親鸞会が詳しいと聞いています。

それでは、続きはまた今度に。

入門編:お釈迦様ってどんな方?(9)

それでは、今回も、仏教入門編、お釈迦様のことについて解説を続けましょう。

憍陳如は、涙ながらに太子の変心を願い、帰城を求めます。
しかし、正覚(仏の覚り)を成就するまでは断じて帰国しないというシッタルタ太子の決意は、大地のごとく微動だにもしませんでした。

「おまえたちには分からないのか!あの激しい無常の嵐が、まだ分からないのか!
ものは皆常住しないのだ。いずれの日にか衰え、いずれの日にか滅ぶのだ。
快楽のかげにも無常の響きがこもっているのだ。
美女の奏する弦歌は欲をもって人を惑わすのみだ。
三界は悩みのみ。たけき火のごとく、浮かべる雲のごとく、幻や水泡のごとし。
若きを愛すれどやがて老いと病と死のために壊れ去るのだ」

火の玉のごとき太子の菩提心を、5人の使者はどうにもできず、涙をのんで帰城し、太子の決意のほどを父王に伝えたのでした。

父王は深く首をうなだれ、さほどまで太子の決心が固いならと、一時は断念されます。が、子を思う親心から、憍陳如ら5人を、太子の元でともに修行させ、世話をするよう命じられました。
5人は王命を喜んで受け、再度太子の元に行き、五比丘(僧)となりました。

父王とヤショダラ姫は、太子の苦行を案じて、衣類や食品を送達させられましたが、太子は固く辞退されて、日に一麻一米を食して、私たちの想像も及ばない苦行を続けられました。
節食、断食、呼吸の制御、特殊な座り方、立ち方、肉体的苦痛を受けること、五火の苦行などで、肉体に打ちかつ力を養い、忍辱、忍受の精神を植えつけ意志の鍛錬をするのです。

しかし、このような苦行を続けられても解脱を得ることができず、いたずらに心身衰痩して、樹にすがって、立つのもやっとというほどになられたシッタルタ太子は、ついに意を決して従来の苦行を捨て、単身苦行林を脱出されたのでした。

さて、この話の続き、気になるところですが、次回にしたいと思います。

入門編:お釈迦さまってどんな方?(8)

今回も、仏教の入門編ということで、お釈迦様の生い立ちから学んでいます。前回の話を続けましょう。

城を出て、山へ入られたシッダルタ太子は、苦行林で未だ人類が経験したことのない激しい修行をなされます。
その修行は峻烈を極め、おそらくこれ以上の修行は今後も誰もできないだろうといわれるほどのものでした。

いっぽう、カピラ城では、突然太子がいなくなり、騒然となっておりました。
浄飯王は、憍陳如(きょうちんにょ)ら5人を遣わし、太子を捜索させました。

5人は、シッダルタ太子がバッカ仙人の元を訪ねたことを知り、急いで仙人を訪ねましたが、シッダルタ太子はすでにアララ仙人の元へ去ったあとでした。

そこで、すぐに後を追い、途中、木の下で、座禅をしている太子を発見しました。

憍陳如たち5人は、浄飯王や妻子の熱烈な思いを、何とかシッダルタ太子にわかってもらおうと必死に伝えました。

しかし、太子はまったく聞き入れようとはしません。憍陳如は、太子の気持ちが理解できず、尋ねました。

「世に出家の動機に4通りあると聞いています。長い病気の苦しみで思うように楽しむことができないとか、年老いたために体の自由と希望を失ったとか、財産を失って生きていくことさえままならなくなったとか、家族に死別して世をはかなむからだと聞いています。しかし太子さまの場合は、このいずれにも、当てはまらないではありませんか。若くて健康な肉体、何不自由のない生活、ご家族にも恵まれておられる。それなのに、なぜ若き楽しみを捨てて、出家をなされ、遠きさとりを求められるのでしょうか、私たちにはまったく分かりません。どうしても太子さまのお気持ちが分からないのです。浮世を離れた仙人でさえも愛染を起こすというのに……」

憍陳如は、涙ながらにシッダルタ太子を説得するのでした。

この話の続きは次回。

入門編:お釈迦さまってどんな方?(7)

仏教を説かれたお釈迦さまの半生を、続けてお話ししています。
親鸞会で勉強している友人が詳しく教えてくれました。

シッダルタ太子は、城を抜け出し、修行のために、山への入っていかれました。

これを「出城入山(しゅつじょうにゅうせん)」と言われます。

シッダルタ太子は、苦行林で、想像を絶する厳しい修行を始められたのです。

入門編:お釈迦さまってどんな方?(6)

仏教を説かれたお釈迦さまの半生を、続けてお話ししています。
親鸞会で勉強している友人が詳しく教えてくれました。

ある晩、シッダルタ太子は目を覚ましました。

すると、昼は天女のようだった女性たちが、歯軋りをしたりよだれをたらしたりとひどい様でした。

「だまされていた!この世のことはすべからく、ウソ偽りで、夢のようなものなのだ。
 今日こそ、出家をすべきときだ」

そう思われた太子は、こっそりと城を抜け出したのでして。

入門編:お釈迦さまってどんな方?(5)

仏教を説かれたお釈迦さまの半生を、続けてお話ししています。
親鸞会で勉強している友人が詳しく教えてくれました。

全人類が必ず直面する、老病死の問題に向き合われ、
真の安心・満足はどこにあるのか、本当の幸福とは何かを探し求める悉達多太子(しったるたたいし)。
出城を父に願い出ましたが、当然、許されるはずはありませんでした。

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「ついに、出家したいと言い出したか……」
父・浄飯王(じょうぼんのう)の不安は、現実のものとなりました。
東西南北の城門から、ふらりと出掛けたあの日から、太子は、ますますふさぎこんでいるようでした。
「金や財もある、優しい妻も子もいる、将来の地位も約束されている。
 命ずれば思い通りに動く家臣たちもたくさんいる。
 老いだの病だの、先々の心配などせず、今を楽しく生きればよいのに……」
父王には、何もかもに恵まれているはずの人生を、少しも楽しもうとしない太子の心情が全く理解できません。

「そうだ!」
はたと気づいて、ひざを打った浄飯王。
「快楽に身を任せれば、つまらぬ悩みも消えてしまうに違いない」
と、すぐさま家臣に命じ、四季折々の豪勢な御殿を作らせ、国中から美女500人を集めてかしずかせました。
昼夜、歌や舞で、太子を慰めようとしたのです。

「太子様、こちらは遠国より取り寄せた珍しい果実にございます」
「それよりこのお酒を召し上がりませんか」
「じっと座っておられても退屈でしょう?私たちと一緒に踊りましょうよ」
次々と太子を誘う、妖艶な女たちの甘い言葉。
テーブルには珍味や色とりどりの果実が並び、愉快な音楽が昼夜、鳴り響く。

勧められるままに飲んだ美酒でほろ酔いの太子、ふとこんな思いが浮かびました。
「私は考え過ぎなのだろうか?
 この美しい女たちといれば、悩みも晴れるのかもしれない……」

こうして、戯れの数年が過ぎていきました。
                            (つづく)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「その時その時、好きなことをやればいいんだ」
「老病死の問題?考えたって、暗くなるだけ」
「生きる意味なんて面倒なことは、忘れた方が楽しく生きられるよ」
周囲を見渡せば、このように言う人ばかりでしょう。
しかしその主張を貫き通すことはできるでしょうか。

【仏教:入門編】で続けてお話してきたお釈迦さまの半生も、次回がいよいよクライマックスです。

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