入門編:お釈迦さまってどんな方?(2)

仏教の入門編ということで、
お釈迦さまが35歳で仏のさとりを開かれるまでの半生をお話ししています。

今回は、前に親鸞会の法話で聞いた「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の話をします。
これはお釈迦さまの有名なエピソードなんですよ。

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生まれながらにして最高の地位、名誉、財産、才能、家族を持ち、
思うままの生活が約束されていた悉達多太子(しったるたたいし、のちのお釈迦さま)。
ところが成長するにつれ、太子は、深い悩みを抱え、物思いにふけるようになりました。
「何を太子は思い悩んでいるのか……」
心配した父・浄飯王(じょうぼんのう)は、何とか明るい太子にしてやりたいと、
国一番の美女・ヤショダラ姫と結婚させました。

太子19歳、優しく麗しい妻との穏やかな日々――。
しかし、太子の心に宿した人生の悩みは、少しも晴れることはなかったのです。

ある時、太子は従者とカピラ城の外に出ることにしました。

まず東の門を出ました。
すると杖を突いてよろよろと歩く老人を見かけました。
顔にはシワがより、歯は抜け落ち、腰は曲がって、思うように歩けない。
隣で従者が言います。
「あの者も、かつては私たちと同じように、若くて健康だったのでしょう。
 自分もやがて、あのように老いていくのかと思うと、つらいものですね」
その言葉に、太子は大変な衝撃を受けました。
「私は、今はまだ若く、体力もある。だが、やがて必ず衰え、老苦にあわねばならぬ時がくるのか」

次に太子が、南の城門を出ると、
伝染病で身体はやせ細り、道端でうめき苦しむ病人に出会ったのです。
思わず馬を下り、助けに行こうとする太子を、従者が引き止めました。
「太子さま、あれははやりの病です。お近づきになれば、太子もかかってしまうでしょう」
その時、必死に看病する妻の嘆きが聞こえてきました。
「ああ、ついこの前まで、病気一つかかったことがなかったのに……。どうしてうちの人が、こんなことに……」
太子は愕然として、
「今どれだけ健康だといっても、私もいつ、あの者のように病に襲われるか分からないのだ」。
病人に薬を与えるよう従者に命じると、太子は固い表情で足早にその場を去りました。
                           (つづく)
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仏教に「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という言葉があります。
すべてのものは常が無い、変わり通しであるという意味です。

私たちの肉体もまた、やがて衰える。病にかかる。
太子の驚きは、太子だけのことでなく、私たちの問題です。
次回も、四門出遊の話を続けます。

入門編:お釈迦さまってどんな方?(1)

仏教の入門編ということで、前回は「仏」についてお話ししました。
復習になりますが、「仏」とは最高のさとり(仏覚)を開かれた方のことです。
地球上で仏のさとりを開かれたのは「お釈迦さま」ただお一人であり、
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。

そこで今回は“お釈迦さまとはどんな方か”についてお話しすることになっていました。
非常に大切な内容です。

お釈迦さまは、今から2600年前、インドで活躍なされた方です。
35歳12月8日(ちょうど今月ですね)に仏のさとりを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまでの
45年間に説かれた教えを「仏教」といいます。

そこでまず、35歳で仏になられるまでのお釈迦さまの半生をお話ししていきます。

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世界の屋根・ヒマラヤ山脈のふもと(現在のネパール)に、かつて釈迦族の国がありました。
首府はカピラ城といい、城主・浄飯王(じょうぼんのう)の統治によって栄えていました。
浄飯王と妃・マーヤー夫人の間に生を受けられたのが悉達多太子(しったるたたいし)、のちのお釈迦さまです。

満開の花咲き誇る4月8日、初産のため故郷へ戻ろうとしていたマーヤー夫人は、
途中のルンビニーの花園で太子を出産されました。
今日、お釈迦さまのご生誕を「花祭り」といってお祝いするのは、このことに由来します。

太子は、幼いころから大変聡明でした。
7歳の時、文武の師に、国一番といわれるバッダラニーとセンダイダイバーを迎えられます。
師が1を言えば10を理解し、友人たちと技芸を競えば、筆写、計算、弓道、剣道、馬術、相撲などいずれも連戦連勝。
間もなく、2人の師が「太子にお教えすることはもうありません」と父王に辞職を願い出たことからも
その優秀さがうかがえます。

生まれながらにして最高の地位、名誉、財産、才能、家族を持ち、思うままの生活が約束されていたわけですが、
しかし、内省的な性格だった太子は、年を追うごとに悩みを深め、物思いにふけるようになっていかれました。

ある時太子は、虫をついばむ鳥が、さらに強い鳥に襲われるのを見て、自然界の弱肉強食の現実を知りました。
「これは動物の世界だけのことだろうか」と太子は身の回りにも目を向けます。

当時のインドには厳しい身分制度があり、身分が違えば婚姻はおろか、口をきくことすらできませんでした。
奴隷は市民に使われ、市民に対して王族は権力を振りかざす。しかし王族とて最強ではありません。
「弱者は虐げられ、強者だけが生き残るのは、人間界も全く変わらないではないか」

では強者は本当に幸せかといえば、
金を持たぬ者は無いことに苦しむが、金持ちは盗まれはしないかと苦しんでいる。
有っても無くても苦しんでいるのに変わりはないことに、気がつかれたのです。
世の矛盾を感じた太子は、「変わらぬ幸せがどこかにないものか」と考え込まれる日が続きました。
                                 (つづく)
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悉達多太子の有名なエピソードに「四門出遊(しもんしゅつゆう)」があります。
これは仏教入門として、ぜひ知っておきたい話です。

先日、久々に親鸞会の法話を聞きに行ったところ、ちょうどこの「四門出遊」の話でした。
そこで聞いたことも交えて、次回お話ししていきます。

入門編:仏とは

仏教の入門的な内容をお話しするサイトですが、前回は少し踏み込んだ内容になった気がします。
もう少し「入門らしい」テーマにしたいと思います。

「仏教:入門編」と言うけれども、そもそも「仏」とは何ですか?というお話です。
これは以前にも触れていますが、もう一度おさらいの意味も込めて。

「仏」という言葉は、どんな時に耳にしますか?
つい先日も、2時間ドラマで殺人事件が起きて、現場に到着した刑事が言っていました。
「おい、“仏”はどこだ?」
そして犯人が逮捕されると、
「これで“仏”も浮かばれるだろう」。
皆、死んだ人のことを「仏」と言います。テレビを見ている人も、それに何の疑問も抱きません。

しかし「仏=死んだ人」となると、仏教は死んだ人が説いた教えになってしまいます。
死人が教えを説けるはずがありませんね。明らかにおかしいことが分かります。

では「仏」の本当の意味とは何でしょうか?
「仏=最高のさとりを開かれた方」のことです。

一口に「さとり」といっても、下から上まで全部で52の位があります。これが「さとりの52位」です。
下から52段目が仏覚(仏のさとり)といいます。これ以上はないから「無上覚」ともいわれます。
1段違えば、人間と虫けらほど境界が違います。
飛んでいるハエに、パソコンの使い方を教える気になれますか?
ハエには人間の境界を到底理解できません。だいたい言葉が通じないですから。これでたった1段の違い。
まして52段上の仏さまって……いったいどんな境地なのでしょうね。

地球上でこの仏のさとりを開かれた方は、今日まで「お釈迦さま」ただお一人しかおられません。
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といいます。

こう聞くと、お釈迦さまは生まれたときから仏さまだったかのように誤解する人がありますが、
そうではありません。お釈迦さまが仏覚を開かれたのは、35歳の時です。
入門編らしく、お釈迦さまとはどんな方であったのか、その半生を次回からお話ししていきたいと思います。

入門編:仏教の教えとは②

入門編として、仏教には何が教えられているのか、について前回からお話ししています。
一言で言えば「廃悪修善(悪をやめて、善を修める)」とすでに述べたとおりです。
そのことを教えた有名な話がありますので、紹介しましょう。

昔、中国に、いつも樹上で座禅瞑想していた鳥窠(ちょうか※)という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天が、その樹下を通った。
奇妙な僧がいるので、ひとつ冷やかしてやろうと声をかける。
「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって座っていては危ないではないか」
鳥窠すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」
と切り返した。“これは相当偉い僧かもしれぬ”と見て取った白楽天、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」。
「私は鳥窠という名もなき坊主だ」
あの高名な鳥窠禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので
「いいところで貴僧に会った。一体、仏教とはどんなことを教えているのか、一言でお聞きしたい」
と頭を下げた。鳥窠は即座に答える。
「もろもろの悪をなすことなかれ。つつしんで善を修めよ、と教えるのが仏教である」
白楽天はいささかあきれて、
「そんなことくらいなら、3歳の子供でも知っている」
と冷笑すると、
「3歳の童子もこれを知るが、80の翁もこれを行うは難し」
と鳥窠は大喝したという。

悪いことをやめよう、善いことをしよう、と教えるのが仏教、と聞いて
「そんなことくらい、分かっている」と白楽天のように笑う人も少なくないでしょう。

しかし本当の幸せを知り、求めていくうえで、大切な心がけなのです。
仏教を深く知らされるほど、この「廃悪修善」の心は強くなります。
引き続き仏教について入門して間もない人にも分かりやすい内容をお話ししていきます。

(※)鳥窠禅師の名前については「烏窠(うか)」とも伝えられている

入門編:仏教の教えとは①

仏教の入門編ということで、続けてお話ししているサイトです。
以前に覚えておきたい仏教用語として、「因果応報」についてお話ししました。
(因果の道理とも言います)

簡単に説明しますと、
「善い行いをすれば、善い結果が自分に現れる。
 悪い行いをすれば、悪い結果が自分に現れる」
ということです。

ではこの因果応報、因果の道理がよく分かってくると、私たちはどんな心になるでしょうか。

誰しも、幸せになりたい、善いことが起きてほしい、と思っています。
そこで「善い行いをすれば、善い結果が自分に現れる」と知れば、
よい結果がほしいから、<善い行いをしていこう> となるはずです。

反対に、不幸になりたくない、悪いことは起きてほしくない、と思っているでしょう。
そこで「悪い行いをすれば、悪い結果が自分に現れる」と知れば
悪い結果はイヤだから、<悪い行いをやめよう> となるのは当然です。

これを「廃悪修善」といいます。文字通り、“悪を廃して(やめて)、善を修める”ということです。

仏教には何が教えられているか、一言で言うならば「廃悪修善」なのです。
入門編にしては少し難しいかもしれません。
ある有名な話を通して、次回も続けてお話しします。

入門編:覚えておこう仏教用語②

前回、入門して間もない人のために仏教でよく耳にする因果応報についてお話しました。
今回も入門して間もない人でもわかる仏教でよく耳にする言葉をご紹介したいと思います。
それは、和顔愛語です。
これは親鸞会の法話を聞きに行った時に目にした言葉なのです。

この言葉の意味を入門編らしく簡単に説明すると、にこやかな笑顔と明るい挨拶ということになります。
現代では人間関係でストレスを感じる人が多く、そのストレスに耐えきれずにうつ病になったりと心の病にかかる人もいます。
つい苦しいと他人のせいにしてしまい、その人をにらんだり(!)悪口を言ったり、してしまいがちかもしれません。
そうすると、どうなるでよう。
そう、悪循環におちいってしまいますよね、
相手も私に対して笑顔なんかしてくれなくなり、悪口やら陰口やらを言ってくるようになるでしょう。
そうすると、こちらもますます・・・

もし、自分が和顔愛語の精神で仕事などに専念していれば周りから好かれ人間関係も円滑に進めることができるようになってくるのではないでしょうか。
自分の我が強く、その日その時の気分によって周りにあたり散らしているようではいけないということなのです。

考えてみれば笑顔をケチるほどケチなことはないですよね。
元手はかかりませんし、ちょっと筋肉をゆるめれば、すぐ笑顔になれるのですから。

お互い笑顔とねぎらいの言葉が響いている職場と、
お互いににらみあって、怒号やら嫌味やらが飛び交う職場とどちらが快適か、考えるまでもないですよね。
仏教では、このような日常でも実践できる善がたくさん教えられているんですよ。

入門編:覚えておこう仏教用語①

この言葉は仏教の入門編には最適だと思ったので、今回どのような内容なのかお話したいと思います。
前回、親鸞会で法話を聞いたというお話をしましたが、その法話で耳にした因果応報という言葉。

この言葉は仏教の入門編には最適だと思ったので、今回どのような内容なのかお話したいと思います。
因果応報とは、仏教の入門編らしく簡単にいうと「善い行いをしたら善いことが自分に返ってきて、悪いことをしたら悪いことが自分に返ってくる」という意味です。
仏教に関心を持ち始めると必ずと言っていいほど出てくる言葉なので覚えておくといいでしょう。

因果応報、他の言葉では、因果の道理とか、因果律とかいいますね。
関連した言葉では、因縁とかいう言葉も。

因果とは、原因と結果、という意味ですね。
どんな結果にも必ず原因があるし、原因なくしておきる結果は絶対にない、ということです。

ちょっと宗教的なイメージとは違うように感じませんか?
宗教ときくと、そんな因果を超越した世界だけが論じられるといったイメージがあるかもしれません。
たしかに、狐や狸のたたりとか、印鑑がどうとか、家の向きがどうとか、先祖のたたりとか、
この世の因果を越えた、理屈ではもう分からない世界が宗教だ、というように思われていますよね。
たしかに、そういう宗教がほとんどです。
でも、仏教はこの因果の道理が根っこにある、とても科学的な教えなんです。

自分がうける結果には、自分自身になんらかの原因がある。
だから悪い結果がきたときには、他人のせいにせずに自分自身を反省する、
善い結果がきたら、より善い結果がくるよう、努力していく、
因果応報、因果の道理ということがよく分かってくると、そんなスガスガしい人生になってくるのですよ☆

入門編:本物を見分ける

入門編として仏教についてお話しているサイトです。
先日、親鸞会という仏教の集まりで法話を聞く機会があったので行ってきました。
今回はその時の法話についてお話したいと思います。

法話を聞くことになったのもブログなどで仏教について書かれてあるサイトを見るようになったのがきっかけです。

今は仏像や骨董品などに興味を持っている若者が多いためか、年齢層も若干若いような気がしました。
どうやらテレビ番組の影響のようなのですが、それでも各地に眠るお宝が次々とその番組に持ち込まれ、想像をはるかに超えた高値にびっくりするといったこともしばしばありますよね!

まぁその反対の場合もあるのですが・・・
以前も、毛利家から譲り受けたという”雪舟の絵”が鑑定に出されたのですが、本人は一千万円を信じていたのにもかかわらず、実は5万円程度の偽物で、先祖代代家の宝といて大事に守りとおしてきたものが、二束三文だとわかり放心状態の持ち主の姿がありました。

有名な話ですが、あの聖徳太子は仏教こそ何億円どころではない人類最高の宝だと言っていたことを思い出しました。

「篤く三宝を敬え。三宝は仏・法・僧なり、すなわち四生の終帰・万国の極宗なり。何の世・何の人かこの法を貴ばざるそれ三宝に帰せずしては、何を以てかまがれるを直らせん」

というように有名な『十七条憲法』に聖徳太子は、こう喝破しているのです。

“世の中には三つの宝があり、仏と仏の説かれた法とそれを正しく伝える僧のことである。

三宝を心から敬い、いずれの世いずこの里においても仏法こそすべての人の最後のよりどころであり、救われる唯一の教えである”といわれたのです。
真実の仏教こそが私たちを本当の幸福に導くすべての人のための宝です。
しかし、その本物を知らないで偽物の仏教を本物と思い込んでしまっているほど不幸なことはないのです。
本物を見分ける目を養うことが大切になってくるのです。

仏教入門:浄土仏教

仏教の入門編としてお話しています。
仏教と聞くと地獄極楽を思い浮かべるかたもあるかもしれませんが、そのことについてはまた時間をとって書きたいと思います。

今まで仏教には大きく2つに分けられるということで、以前までは聖道仏教についてお話してきましたが、今回からは、浄土仏教についてお話したいと思います。

聖道仏教とは違って浄土仏教と聞くと、なんだか親しみやすいというか、どこか聞いたことがあるような名前だと思います。
でも仏教に入門したての私たちが間違えやすいのは、仏教と聞くとすべて南無阿弥陀仏と念仏を称えだけでいいんだと思いがちです。
しかし、そうではありません。
このことはまた時間をとってお話いたしましょう。

浄土仏教では、「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」という阿弥陀仏のお約束が説かれています。
これを阿弥陀仏の本願といいます。

「極悪を捨てず裁かず 摂め取る」

仏教の入門したての私たちにとってみたらお釈迦様だったり阿弥陀仏だったりいろんな名前が出てきますが、いったい阿弥陀仏とはどんな仏様なのでしょうか?
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われるように、この地球上で仏のさとりを開いたのはお釈迦様ただ一人といわれています。
しかし、この大宇宙には、地球のようなものが無限といっていいほどあるように、
そこに仏さまが現れておられるので、大宇宙には数え切れないほどの仏がおられるのだと
お釈迦さまは教えておられます。
これを三世十方の諸仏といわれます。
お釈迦様をはじめ大宇宙すべての仏の先生が阿弥陀仏という仏さまなのです。
蓮如上人はそのことを「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば」と言われています。
「阿弥陀仏は、大宇宙のあらゆる仏の先生である」ということです。

このように阿弥陀仏が本師本仏とあがめられるのは私たちを救うお力が他の仏よりもずば抜けているからです。
仏法では仏の念力や仏の力のことを光明といいますが、『大無量寿経』には次のように喝破されています。
「無量寿仏(阿弥陀仏)の威神光明侭最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」
“阿弥陀仏のお力は、諸仏をはるかに超えて、ずばぬけている”
だからこそ先生の仏さまなのです。
この阿弥陀仏のお力を12通りに分けて教えられたのが大無量寿経や正信偈にも出てくる「十二光」といわれるものなのです。
(※十二光についてはまた機会があったときにお話したいと思います。)

前回まで書いてきましたように、私たちは煩悩いっぱいで諸仏からも見放されたような煩悩具足のものです。
しかし、他人に嫌われるような子供は、なおかわいい親心のように、大宇宙の諸仏に見捨てられた極悪人なら、なおさら捨ててはおけぬと大悲やるせなく、何とか救わねばならないと立ち上がってくださったのが、阿弥陀仏といわれる仏なのです。
浄土仏教では、阿弥陀仏のお力によってのみ救われることができると説かれています。

仏教入門:聖道仏教③

仏教の入門編として聖道仏教についてお話しています。
今回で3回目となるわけですが、今回は仏教用語にも出てくる「煩悩」にまつわるお話をしたいと思います。

人は煩悩を持ちながら生きているというお話を前回までにしたと思いますが、煩悩で悪いことを思いつづけていますが、そんな人間はなぜ生きるのでしょうか?
この煩悩と格闘したとされるのが親鸞聖人なのです。
親鸞聖人は九歳で、当時、日本の仏教の中心地であった比叡山・天台宗の僧侶となられました。

聖道仏教の1つである天台宗は、『法華経』の教えに従い、戒律を守りながら煩悩と闘ってさとりを得ようとする教えなのですが、この天台宗の大曼の難行まで成し遂げた親鸞聖人でさえも煩悩は減りもしなければ、なくなりもしなかったというように言っているのです。
そんな親鸞聖人ですが、だれよりも真剣に心を磨こうと努めていたのですが、努めれば努めるほど人間の実態を知らされた親鸞聖人は「煩悩熾盛の衆生」と歎異鈔でいわれています。

(入門編としては少し難しい内容かもしれませんが、1度歎異鈔を読んでみることで仏教について理解が深まると思います。)
親鸞上人のいう「熾盛」とは、燃え盛るということであり、欲や怒りの煩悩が燃え盛っているのが人間であるということです。
俗にこのことを「煩悩具足の凡夫」ともいい、煩悩に目鼻をつけたような人間ということを意味します。
これは雪だるまのようなもので雪だるまから雪を取ったら何も残らないようなもので、私たち人間は煩悩をとったら何も残らないようないわば煩悩の塊であるということをいみしているのです。

このような煩悩具足の我々は、「仏法修行の器にあらず」と、諸仏からも見捨てられた極悪人であるというように釈尊は説かれているのです。

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